戦闘民族の獄

きゅーぽけ所属 モンローです

運についての話

Twitterでブログのネタを募集した際に、運についての話をしてとリクエストされたので書くことにする。嫌々書いてるわけではないので気を悪くしないで欲しい。面白くもないし、読んで得られるものはないと思う。ただ自分の考えをまとめただけなので。

  

 

対戦ゲームをやっていると、どうしても運に左右される。これは、どんなに対策してもいつかは必ずやって来る避けようがない要素だ。人間というものは身勝手なもので、自分が嫌な目に遭った記憶だけが強く残り、恩恵を受けた記憶はどんどん薄れてゆく。Twitterを眺めていると毎日必ず運がどうのこうのを呟いてる人がいる。多くは運が悪かったことに対して怒っていたり悲しんでいたりだ。 自身が運に助けられたことは棚に上げて。

 

可哀想だなとは一応思うが、あまりに度が過ぎた運負けツイートを見ると辟易する。ただ、決して私は運負けツイートはやめよう!みたいな有り触れた記事を書きたいわけではない。

 

ここでは、運について語れる資格について言及したい。

 

一応説明しておくが、この記事で触れている運は全て内的要因についての運である。極端な話にはなるが、ゲーム中に隕石が落ちて地球が割れて勝利どころではなくなった。みたいな外的要因についてではない。

 

 

ずばり、運について語る資格があるかどうかは、結果的にその戦いにおいて自身が最善を尽くしたかどうかによると思う。真剣なプレイングは言うまでもない前提である。運についてあれこれ語るのは先ずそのラインを超えてからだと思う。

 

出尽くした話にはなるが、択の先延ばしによる被弾回数の増加が運負けの最たる例である。

 

簡単に説明したが、私にはこれが大体の試合で起こっている現象であるように思える。先にミスをした者が試合に負けると言っていた人がいたが、私も概ね同意見である。

 

自身にとってそれが最善の行動に思えたとしても相手の思考を完全に読み切れるわけではないし、客観的に見てもそれは大抵どこかしらの破滅を孕んでいる。小さな綻びがいつの間にか巨大化し、気づく間もなく試合に敗れる。そうして行き着く先が運という目に見えない自分の都合の良いようにねじ曲げられた概念である。

 

つまり、私が何を言いたいのかというと、安直な逃げ道としての運の持ち出しを真っ先にするのではなく、悔恨を先行させなければならないということだ。そうでなくてはならないし、そこに気づいて欲しい。その行程を経て漸く運に見放された話をする資格が与えられるのだ。

 

追伸 稚拙な考えなことは百も承知なので、意見のある方は私までお願いします。